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servitus)を脫して自主自由の境に入らざるべからず。斯くスピノーザが吾人の煩惱に覊さるゝ狀態を描き、而して吾人は之れを擺脫して自由自在なるべしと說ける所、是れ彼れが論に於ける有名なる一段なり。

斯くの如くスピノーザは吾人の煩惱を拂ひ去りて心の靜平なる狀態に到ることを重んぜり。是れ即ち彼れの說に於ける寂靜主義の要素なり。されど彼れは決して禁欲主義を唱へたる者にあらず、唯だ吾人の妄見により種々の煩惱に心を擾だしそれに覊さるゝ狀態を脫却する必要を說けるなり。如何にせば其の如く煩惱を脫して寂靜の境地に到るを得べき。彼れ說いて曰はく、吾人は凡べての事物の起こり來たる永恒の理を發見することによりて諸多の妄執を脫却し得べし、凡そ妄想は事物の起こり來たる原因を明らむるによりて夢の覺むるが如くに覺め果つるものなり。吾人の煩惱を起こすは畢竟事物の當さに然かあるべき筈なるを知らず之れに種々の願望を繫けて自己の心を擾だせばなり。若し其が本體に於ける永恒の相に於いて萬物を觀ば凡べての事と物とは皆神性の必然によりて來たるものなるを悟るに至るべく、それに反抗して種々の妄想を起こす心は自然