Page:Onishihakushizenshu04.djvu/162

提供:Wikisource
このページは校正済みです

と云へり。差別見によりて見たるものは即ち全からざる觀念にして不明瞭、不確實なる疑はしき想ひは凡べて之れに屬す。眞理は明らかなる全き觀念を想ひ浮かぶるにあり、而して其の眞理たることは其の觀念を想ひ浮かぶることに於いて自ら證せらる。眞理は自らを證するものなり。五官の感覺及び種々の情念等は皆事物を斷ち離して永恒の本體を觀ざる差別見に屬す、善惡美醜の別といふも、目的といふも、また抽象的槪念といふも、皆これに屬す。一物が或事柄の目的の爲めに生ぜられたるが如くに見るは畢竟ずるに吾人の差別見を以て觀るが故なり、また實在するものの相を抽象して槪念を作るが如きも同じく事物を切斷して見るものにして是れ決して實在其の物、眞理其の物を看取する道に非ず。

眞實の知識は事物を其の永恒の相に於いて觀る所に存す。スピノーザは之れに二段を分かてり。一は論理的作用に從ひて推理し行く所のラシオ(ratio)にして他は事物の實相を直觀する直覺的知識(coguitio intuitiva)なり。かく二分する時は推理に屬するものは直觀と同じく萬物に行はれ居る永恒の理相を發見するものなれども唯だ其が本體の上より一時に直觀するものならぬことに於いて之れと異