コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/161

提供:Wikisource
このページは校正済みです

有するものと爲すは不明瞭不完全なる觀念を去りて明瞭に且つ完全なる觀念を得るに進み行くと同一不二なり。

然らば不完全なる觀念(ideae inadequate)は何處より來たる。スピノーザ以爲へらく、吾人の心に種々の複雜なる觀念あるは猶ほ吾人の身體に種々の複雜なる運動あるが如し、而して吾人の身體に於いて一の運動が他の運動によりて紛擾せらるゝが如く吾人の心に於ける觀念はた相互に紛擾攪亂せらると。言ふこゝろは所謂不完全なる觀念は吾人か切れの觀念を想ひ浮かべて之れを雜然結合せしむるより來たるといふにあり。盖し一物の觀念を全く想ひ浮かべずして覺束なく其の一部分のみを浮かぶる是れ即ち切れの觀念を思ひ浮かぶるにてまた此等の切れなる觀念が他の切れなる觀念と相混雜することによりて不明瞭なると共に混雜せる觀念を生ず。而してかくの如く不明瞭に且つ混雜せる觀念の存在する所以は事物を唯だ離れの物として見るが故なり、個々の離れの部分が相集まりたるものとして見るが故なり。一言に云へば、事物の差別相をのみ見るが故なり。スピノーザは此の差別見を名づけてイマギナシオ(imaginatio