Page:Onishihakushizenshu04.djvu/143

提供:Wikisource
このページは校正済みです

に沒し或は一方に出づることあれども、全體の上より見れぱ常に一の全き樣を成し居るものなりとし、かくて動及び靜(motus et quies)をば廣がりの性に於ける無限樣と名づけたるならむ。又心の方面に於いては無限知(intellectus infinitus)萬有の觀念(idea omnium)又は神の觀念(idea Dei)是れ即ち無限樣なりと云へり。盖しスピノーザの意は心の方面に於ける全體の作動を指して其を全きものとし唯だ其の中の部分のみ變化出沒するものなりと見たりと考へらる。故に吾人の知力は無限知の一部分なりと云へり。

此くの如く無限樣は心又は物の方面に於ける全體の全き所を指して云へるものなるが故に、こは神即ち本體より直ちに來たるものとして考ふるを得、換言すれば、本體の圓滿相は心及び物の各方面に於ける全き樣(無限樣)に現はると見るを得。是に於いて吾人はスピノーザが限りある個々物は直ちに神より來たるものとしては考ふべからず、直ちに神より來たるものとして考ふべきは唯だ無限樣あるのみと云へる意を了解するを得べし。茲に神より來たるといふ語を用ゐればスピノーザが神と萬物との關係を說きて其を唯だ論理的なるものなるかの如くにい