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《本體の樣狀、本體と差別相との關係。》〔六〕かく本體の吾人に對するや全く其の性を異にせる二つの方面に於いて知らる。而して此等の各方面に於いて起こる種々雜多の事柄あり、スピノーザは之れを本體の(或は樣狀 modus)と名づけたり。此等本體のは言ひ換ふれば本體の差別相(affectio 又は modificatio)なり。心なる性の方面に於ける本體の差別相は出沒極まりなき種々の念にして此等は多くの個々の心として或は現はれ或は沒す。廣袤の方面に於ける本體の差別相は同じく出沒極まりなき個々の形體即ち種々の形を具して種々に動く個々の物體なり。而して本體と其の差別相とは相即不離の關係を有す。スピノーザは之れを譬へて曰はく、本體と差別相との關係は猶ほ線と線に於ける點との關係の如し、個々の點が個々なる樣に於いての集合を以て線とは云ふ可からず、其が線と云はるゝは個々の樣に非ずして一體をなせる所にあり。されど其の一なる線は決して個々の點と相離れたるものに非ず。萬物と本體と亦かくの如し、萬物は其の個々なる樣に於いて直ちに本體(即ち神)と云はる可きものに非ざれども二者は相即して決して離れざるものなり。史家エルドマンはスピノーザの意を取り、之れを譬へて曰はく、神(本體)と萬物(樣狀)とは猶