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メンダシオーネ』("De Intellectus Emendatione")及び彼れが大著『エティカ』の著述に著手せしが前者は中絕せり。此の頃より彼れは當時有名なりし學者等と相交はるに至れり。一千六百六十三年にはフォールブルグに移り、一千六百七十年にはハーグに移り、此の年『トラクタートゥス、テオロギコ、ポリティコス』("Tractatus Theologico Politicus")を出版して大に信敎の自由を主張し、且つ舊約書の歷史的批評を開かむとしたりしため當時の學界に大波瀾を揚げ神學者の嫌惡を受くるに至れり。さて出版の翌年宗敎會議は此の書を判して讀むべからざる異端の書となせり。彼れは其の後『エティカ』を出版せむと試みしが其の噂の世間に傳はると共に其の出づるに先きだちて復た神學者等の妨害を加へむとするに遇ひ、竟に之れが出版を思ひ止まれり。スピノーザは其の生存中竟に其の大名を後世に傅ふべき大著を公にせざりしなり。彼れは生涯娶らず、極めて質素なる生活をなせり。其の性質溫藉高雅、專心永恒の眞理を觀ることを以て樂みとせり。早くより肺患に冒されしが養生其の宜しきを得たりしため病頓にはすゝまざりしも次第に衰弱を增し終に一千六百七十七年二月二十一日彼れが寄宿せる家の主人夫妻も其の死の近