コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/126

提供:Wikisource
このページは校正済みです

たるもの、即ち神の知識の光によりて照らされたるものに外ならず。吾人の意志の働きて我が四肢の動くは我れが其の眞因たるに非ず我れは唯だ其の塲合を爲すに過ぎず。啻だ心と身との關係の然るのみならず一物體が他物體を動かすも眞實は一が他の原因となるにあらず。運動を與ふる眞原因は神の外にあらず。吾人の知識が神の自識を分有するものなるが如く吾人の意志も亦神が自らを愛する愛を分有するもの也。如何なる意志も皆多少の善を求めざるはなし。吾人の窮極の目的は唯だ神を知り彼れを愛することに在り。

《マルブランシの萬有神說。》〔九〕マルブランシの學說も一種のオッカジオ論たる趣を帶びたり。彼れはジューランクスの用ゐたると殆んど同一の語をさへ用ゐたる所あり。彼れの思想は畢竟ずるに一切の原因を神に歸し神を離れて自存する者なしと主張するにあれば其の傾向は明らかに萬有神說的なりと謂ふべし。ジューランクスはデカルトより出立して進みて萬有神說の方向にむかひ、マルブランシは(彼れ自らは此の說を排撃するに力めたれども)ジューランクスよりも更に此の說の方向に進める所あり。彼れが神を謂ひて神は念ひを有すると共に廣がりを有す、但し其の念