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り。四方に流浪するや詩歌を吟誦して口を糊し遂にシヽリア及び南部伊太利に來たれり。南部伊太利の一市府エレアに來たりしことあらむと思はるれど、こゝに其の筇をとどめて其の學を傅へたりと云ふことは確かならず。西曆紀元前四百七十九年には尙ほ生存し居りしが如し。さればクセノファネースはピタゴラスと略〻其の時代を同じうせしか又は寧ろ少しく彼れに後れしならむ、而して彼れが如く小亞細亞沿岸のイオニア種族の市府に生まれ後移りて南伊太利に求たりし也。

《クセノファネースが俗間の宗敎に對する攻擊の態度、口吻。》〔二〕テオフラストスはクセノファネースをアナクシマンドロスの弟子なりといへれど其の思想の要點に於いてミレートス學派と頗るその趣を異にする所あるは明らか也。又クセノファネースはピタゴラスと同じく其の思想を宗敎の上に注ぎたれど、しかも彼れと異なり俗間の宗敎的信仰に對しては全然攻擊の位置に立てりき。ホメーロス、ヘーシオドス等が神々の喧嘩口論又詐欺竊盜をさへ書きならべ只管神を人間のやうに思ひなすを嗤うて曰はく、「もし牛又は獅子が人間の如く手を有し而して其の手をもて畫くことを得又器物を作ることを得ば馬は馬の如くに、牛は牛の如くに神の形を畫くならむ」と。又曰はく「エティオピヤ人は其の