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千二百七十年)。十字軍は先きにモハメット敎國の推し寄せ來たりしに對し其の打ち返しとして基督敎國より推し出だしたるとも見るべき現象にして其の結果希臘及びモハメット敎國の文化が大に西歐に輸入せらるゝこととなり、而して件の文化の輸入は當時の學問界に於いてはスコラ哲學の全盛を誘起することとなれり。然るに其の結果は此に止まらず一般西歐人民の眼界を廣うし基督敎國以外に却つて文化に進步したる民人あるに思ひ到らしめたり。かくして知識上の開發は遂に羅馬法王制度に不利なるに至りたり。

離散は敎會に不利なると等しくスコラ哲學に取りても亦不利なるものなりき。スコラ哲學の隆盛なりしに當たりてや巴里府の大學は歐洲學問界の中心にして其の言ふ所は學界の問題に於ける最高の判決たるが如き勢力を有したりしが漸次學問の中心は幾多獨逸に、伊太利に又英吉利に興起することとなり而して其の結果はスコラ哲學の統一主義に不利ならざるを得ざりき。之れと等しく法王制度の上にありても法王が一時南北に分かるゝに至りしことの如きは其の衰弱を促さざるを得ざりき(是れ歷史に所謂法王權の分裂、一千三百七十八年)。外に現はれた