Page:Onishihakushizenshu03.djvu/496

提供:Wikisource
このページは校正済みです

《「二重眞理」の唱道、其の主意。》〔一二〕スコートスが言のついでに宗敎家に取りての眞理と哲學者に取りての眞理とは全く殊別のものなりと云へることはオッカムに至りては明瞭に意識され又言表されたる思想となりぬ。以爲へらく、哲學者に取りて眞理ならぬことも宗敎家に取りて眞理なることを得べくまた宗敎家の承認することにして哲學者の承認す可からざること無きに非ずと。當時かく二者の範圍を異なりと爲しゝより彼れ此れ其の眞理をも異にせりと見るに至り從ひて「二重の眞理」といふ說の廣く唱道せらるゝに至りぬ。而してかく「二重の眞理」ありて神學上眞なると哲學上眞なるとは全く相異なれるものなりとせらるゝに至りてはスコラ哲學當初の目的は已に抛棄せられたりと謂はざる可からず。されど斯くの如くスコラ學者等が道理と信仰との分離を主張するに至れるも決して羅馬敎會の宗義に反對せむの旨意に出でしにはあらず却つて其の宗義を更に堅固なる基礎に置かむことを目的としたりしなり。盖し彼等は宗敎を哲學と調和し哲學上の理論によりて信仰を辯證せむとせば却つて哲學的理論の爲めに累はさるゝことを免れずと見全く理論に累はされざる境涯に宗敎を置かむとし而して其を以て唯だ天の啓示と敎會の所