コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu03.djvu/392

提供:Wikisource
このページは校正済みです

所は在來の古き宗敎の遺物なりしかばおのづから當時の新宗敎として勢力を得つゝありし基督敎の正面の敵となりき。


プローティノス(Πλωτῖνος

《希臘哲學最後の偉人。》〔二〕新プラトーン學派は其の源をアムモニオス、サッカス(西紀後二百四十二年頃に死にき)となむ呼べる人に發しきと傅へらる。彼れはアレクサンドリアに在りて身を勞働社會に起こし後にプラトーン學派風の敎說を唱ふるに至りきといふ。然れども彼れが如何なる敎を說き、また如何なる點に於いて新プラトーン學派の祖と云はるべきかは詳かならず。哲學史上彼れは殆んどただ一の名として記憶さるゝのみ。歷史上正當に新プラトーン學派の祖と云はるべき者は寧ろ曾てアムモニオス、サッカスの敎を受けたりきと傅へらるゝプローティノスなり。プローティノスは紀元二百四(或は五)年に埃及のリコポリスに生まれ、學術殊に宗敎上の硏究を爲さむが爲めに東方に漫遊せることあり後に羅馬に來たりて子弟を集め敎授を始めたり。二百六十九(或は七十年)に逝けり。羅馬帝の賛助を得てカムパ