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り設けたるもの(νόμος)にして本來自然に一定したる不變不易のものにあらず。如何なる斷定に對しても能く吾人は其の反對を主張することを得べしと。

《一切是非の判斷を止むべし。》〔三〕ティモーンに從へば幸福なる生活を送らむには須らく三つの事を明らかにすべし。一に事物の成り立ち如何といふこと、二に吾人が其等の事物に處する道如何といふこと、三に之れに處するよりして如何なる結果を來たすかといふこと是れなり。然るに吾人は右に述べしが如く事物其の物の成立を知ること能はざれば凡べての判斷を事物に對して固執するは誤れり、故に事物を斷定して是と云ひ非といふ共に正當の根據を有するものに非ず、故に事物に對して吾人の處すべき道は是非の判斷を止むるにあり。是非の判斷を止むれば如何なる事柄の起こるとも吾人はそれに對して無頓著なることを得換言すれば事物を善くも惡しくもなき即ち無記のもの(ἀδιάφορα)と見ることを得、是に於いて吾人の心は平靜にして外物の變遷によりて攪擾せらるゝことなきに至るべく此の心の平靜を得ることに於いて吾人は始めて眞正の幸福に達するを得べしと。かくの如く懷疑學派の旨とする所は理論上に於いてもまた實際上に於いても共に是非の判斷を止