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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/361

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しと。かくの如く外物に對する慾望に攪擾せられざる狀態是れその所謂アタラクシア(ἀταραξία)即ち心の平靜なるの謂ひにして、ストア學派の謂ふ不動心に應ずるもの也。

《ストア學派と同じく意志の力を重んず。》〔九〕エピクーロスが精神(意志の力)に重きをおくことの大なる、縱令身體に苦痛はありとも我が心の持ちやうにて泰然自若たるを得と說くあたりは恰もストア派の說に髮髴たり。エピクーロス學派の理想的賢人はストア學派の理想的賢人に似て其の欲望を制することの全く自在なる者なり。エピクーロスの有名なる語に曰はく我れに麵包と水とあらば幸福に於いて天帝に讓らずと。之れを要するにエピクーロス派の學相は一面ストア派の正反對に立てどそが人生の理想を描きて安靜なる生活を送らむには外物の欲望に束縛さる可からざることを說くに至りては甚だしく相接近せり。吾人は壽命にも執著することあるべからず。エピクーロス學徒も隨意に自殺することを可とせり。說きて曰はく死は毫も恐るべきものに非ず。吾人が恐るべき死に逢ふことありと思ふは迷妄なり、我れの生き居る間は死來たらず死すれば我れ居らず我れと死と遂に相逢ふべき時なきなりと。