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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/299

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ば陶器等には其の形及び大さ等定まりたる相あり。然れども件の相はかゝる相を取るところの粘土と相離れて存在するものにあらず。粘土をば未だ器物の相を現ぜざれど將にそを現ぜむとするものと見ば是れ素なり。而して其の相の實現せらるゝは外より或物を附け加ふるにあらずして素其の物に於いて已に相を開發すべき性を有するなり、また其の物がみづから相を現じ行くが故に素と云はるゝなり。之れを要するに相は內より開發し行くものなり。さればアリストテレースが所謂相と素との意義は人爲に成れる器物よりも寧ろ自然に生長する有機物になぞらへたるかた解し易かるべし。一生物の種子は自ら其の中に或相を取りて生長すべき性を具ふ例へば桃の相は自ら桃となりて發生し行くことに在り。即ち相其のものは素よりして漸次に現はれ來たるなり。變化生長は此處に存す。世に轉化と云ふことあるは畢竟未だ實にせられざる事物の性が實にせらるゝことにあり、未發の狀態に在る性が旣成の性となるに在り。斯くの如くにして發達しゆくもの是れ實在なり、此の發達を離れて實在といふべきものなし。即ちアリストテレースはプラトーンが二界として相別かちたるエレア學派の所說と