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て裏面より立證したりと傳へらる。此の派の學徒は後益〻ヅェーノーン風の論法を用ゐるを事とし、論理の硏究に多少の裨益を與へざりしにはあらざれども其の論や遂にソフィストの詭辯と相簡ばざるに至れり。彼等の論法にして時人の注意を惹きたる一二の例を擧ぐれば今こゝに穀物を累積し行かむに何れの一粒に至りて始めて一斗を成すかといへる疑問の如きは彼等が得意の論題として傳へらるゝ所なるが是れは要するにヅェーノーンが限りなく小なる部分を如何ばかりせむとも分量あるものを成すこと能はずといへるを言ひ更へたるものに外ならず。また此の派のディオドーロス(Διόδωρος )が可能(即ち實に在らざれども唯だ在り能ふこと)といふ觀念を打破せむとしたる名高き論あり曰はく實に在り又必ず在るべきもののみ可能なり、何となれば何が可能なるかはそが實在となることによりてのみ知らるべければなり更に裏面より云へば現實とならざる可能はそが現實とならざることによりて不可能なることを現はせばなりと。また此の派のスティルポーン(Στίλπων)は謂へらく、一物につきて吾人の立言し得る所は其の物の外に存せず、何となれば其の物につきて其の物以外の事を立言し得べき筈なければなり、