Page:Onishihakushizenshu03.djvu/212

提供:Wikisource
このページは校正済みです

くべからざるものとして一種の感情の必要を認めたりといへり。此の見解に從へば學理的硏究の結果としては吾人の明瞭に知識する能はざる境涯の無きを得ざれば其の如き塲合には彼れは(學識とは云ふべからざるも)心情の指示の存するあるに依るべしとなせる也。(ソークラテースがダイモニオンの聲を聞くと云へるは彼れが一種の幻覺を有したるなりと考ふる學者もあり。そは兎も角も彼れが奇癖を有したりし人なるは疑ひなきが如し。)

《ソークラテースが知識の實在の根據は其の道德的確信にあり。》〔十四〕上に陳ぜしが如くソークラテースの硏究の結果はソフィスト等の如く破壞的ならずして建設的なり、其の建設的なる根據は明確なる知識の得らるべき事を說きしにあり、即ち事物の遍通不易の相を吾人の知識し得べきことを以て其が論據とせり。さばれ如何にしてかゝる知識は得らるべきか。其の得らるべきことを否みしものはプロータゴラス也。プロータゴラスは人智の性質を考究してかかる知識は有り得べからずと論じたり。ソークラテースは其の如き知識の必要を說きたれども未だプロータゴラスの懷疑說に對してかゝる知識の有り得る所以を明示せず。彼れは未だ十分の自覺を以てプロータゴラスが提出せし知識論