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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/190

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壞的知識論はその極點に達したりと謂ふも可ならむ。彼曰はく、(第一)何物もあるなし、(第二)縱令物ありとも吾人は之れを知る能はず、(第三)縱令知り得たりともそを他人に傳ふる能はずと。先づ何物もあるなしといふことの彼れの論證に曰はく、何物か在りとせばそは有又は非有又は有、非有を倂せたるものならざる可からず。然れども物は此の三者の何れにもあらず。如何となれば若しなりとせばそは生じたるものなるか將た生ぜざるものなるべし。又なるか將たなるべし。然るに若し生ぜざるものならば無始なり、故に無窮無限なり。無窮無限なるものは何處にあり得べき。自己の中にも他物の中にも在るべからず、何となれば其のものの在るは自己よりも大ならざるべからず、然るに無窮無限のものよりも大なるものあるべきやう無ければなり。然らば有は生じたるものなるか、若し生ぜしならば有よりせしか將た無よりせしか、無より有は生ぜず、又有よりも有は生ぜず、何とならば有は他に變ずるものにあらず、有に生滅あるべき理なければ也。次に有はなるか、將たなるか。若しならばそは分かたれざるものなれば大さあるべからず、大さなければ物にあらず、物にあらずば存在を有する能はざるな