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を異にすれば知識また異ならざるを得ず、一槪に何れを眞理とも定めがたし。知識は凡べて個人的にして又一時的のものなり。我れと他と其の見を異にし又我が前の見と後の見とを異にすとも何れを是とし何れを非とせむ、唯だ其の時其の人に見えたる事柄の外に知識と謂ふべきもの莫ければ也。此の故に知識は主觀的なり。其の人の其の時の狀態に關係するものなれば相對的なり。絕對的眞理といひ萬古不易の道理といふが如きものは吾人の知り得べき限りにあらず。

以上の懷疑說をばプロータゴラスは流石にいまだ道德の方面には應用せず、善惡正邪等の區別は彼れ之れを疑ふことをせざりき。さばれ彼れが宗敎に關する思想の旣に懷疑的傾向を帶びたりしはその一著書の冒頭の語を以ても明らかなり、曰はく「神々に關しては我れは其の眞實存在する者なるか否かを知る能はず」と。〈吾人の感官の知覺は外物そのものを示さずして外物が吾人の感官に及ぼしゝ影響に外ならずといふプロータゴラスの主觀說はデーモクリトスに採用せられてアトム論中の知覺論の根據となれりしものと思はる、こはアトム論者の條下に辯じ置きたる所の如し。〉

《ゴルギアスの破壞的知識論と其の論證。》〔七〕ゴルギアスはシヽリーの一市府レオンティーノイに生まる。プロータゴラスと同時代の人なり(紀元前四百二十七年亞典府に來たれり)。彼れに於いて破