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論ならざりし點が(即ちもとミレートス學派の物活說に存在し而してエムペドクレースにありては愛憎の二動力として現はれたりし要素が)アナクサゴーラスに至りてはヌウス說として現はれ來たれり。物活說に於いては漠然相混合せりし物體活動との二觀念がパルメニデースとヘーラクライトスとに至つては明暸なる對峙をなしアナクサゴーラスに於いては其の一分は矢張り種子てふ觀念に保たれながら其の他分は發達してヌウスとなりアトム論者に於いては其の一方が全く他方を倂吞してこれに別個の存在を與へざるに至れり。アナクサゴーラスにありては此の兩者を相離して一は他と相混ぜずと見しと共に其の一方が多少靈智的のものに近より、アトム論者にありては之れを相離さざりしと共に一方が他方を橫領して遂に物體的元子といふ觀念となり了はれり。

斯くの如く第一期の希臘哲學は客觀の物界を硏究するを以て其の主眼となしたりしが、其の學相によりて更に二時期に分かつを得、即ち前期の學相はミレートス學派以降パルメニデースに至りて窮極せる一元說、後期の學相はパルメニデース以後一轉して遂にアトム論に於いて其の發達の頂上に達したる多元說なり。而