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ること其の學說を論じたる處に陳べしが如し。彼れは吾人の思想をもと同一不二なるものといひたれども其の著眼點は矢張客觀の有にあり、其の意盖し吾人の此のを思惟するの思想も眞實あるものなる以上はの外なるものにあらずといふにあり。ヘーラクライトスが萬物の實相を不斷の生滅變化と見而して火を以て生滅變化の基因となしたるも是れ亦客觀なる物界に對する思索に外ならず。エムペドクレース、アナクサゴーラス、ロイキッポスの三家及びピタゴラス學徒が思索の對境となしゝ所はた同じく客觀なる物界にありしこと論を須たず。彼等の說たま知識の論に涉ることありしもそは唯だ客觀界の實相に對する解釋より生じ出でたる餘論に過ぎず。感官の知覺と理性の知解とを相分かちたるも唯だ客觀界の實相と考定したるものをば前者によりては見得ずと思惟せしが故也。如何にして外物の知覺し得らるゝかを論じ又智力の銳鈍の何物に懸かるかを論じたるも、要するに之れを客觀的現象の一部分若しくは之れより生じ來たれるものと見て尋究したるに過ぎず。故に知識に關する多少の論はあれど論理學と見做すべきものなし。且つ又其の眼孔の專ら物理の硏究に向けられしが