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ならむか。其の生地また分明ならず、或はアブデラ〈トラケーの一市府、イオニア種族の殖民地〉或はミレートス、或はエレアの產なりといふ。書を著はしゝか否かも明らかならず。アトム論の根本思想は彼れの創唱せし所なること疑を容れず。然れどもこれが應用を押しひろめ其の論を完成して一大學說となしゝ功はたしかにデーモクリトスにあり。されば後世其の名の爲めに創建者たるロイキッポスの名の蔽はるゝに至りぬ。

デーモクリトスはアブデラに生まる。アポルロドーロスの記せる所に彼れはアナクサゴーラスよりも年少なること四十歲とあるを以て考ふれば其の生時は西曆紀元前四百六十年頃ならむ。兎に角ソークラテースと略〻其の時代を同じうせりしが如し。廣く埃及及び波斯近傍を漫遊し他鄕の客となること五年、後故鄕に歸りこゝに其の學派を開きたり。當時亞典府は希臘文化の中心たりしがデーモクリトスはこれと隔離し其の府に於ける思想界の影響を受くることなかりしが如し。思ふに彼れとソークラテース及びプラトーンとの間には殆んど相互の思想上の影響なかりしならむ。こはプラトーンが一たびも彼れの名を其の書中に揭げざる