Page:Onishihakushizenshu03.djvu/128

提供:Wikisource
このページは校正済みです

アナクサゴーラスは小亞細亞のクラヅォメナイの人、アポルロドーロスに據れば紀元前五百年に生まれたり。〈クラヅォメナイも亦イオニア文化の範圍內にありし一市府なり〉年齡よりいへばエムペドクレースに先だち著作よりいへば彼れに後れたり。紀元前五世紀の中頃かの波斯戰爭の局を結びて間もなく亞典府に來たり當世の名士ペリクレース、オイリーピデース、トゥキーディデース等と交はり學術を以て同志に推されたり。ペロポンネーソス戰爭の開かるゝに先だちペリクレースの政敵彼れが朋友を窘迫したりしことありしが、アナクサゴーラスも其の一人として此の禍に罹りき。彼れ月を大地と同樣の者なりといひ日を燃ゆる石塊に外ならずといへりとて訴へられ遂に亞典府を去らざるを得ざるに至れり、時に紀元前四百三十四年なりき。或はいふ、一旦獄につながれ後放たれてラムプサコスに行けりと、或はいふ直ちに亞典府を逐はれたるに過ぎずと。ラムプサコスにて齡七十二にして歿せり。散文にて書を著はしたり、これをも「ペリ、フィゼオース」と名づく、今尙ほ其の斷片の句を存せり。

《萬有の原物は性質上差別ある無數の種子なり。》〔二〕アナクサゴーラスが思索の起點となしゝ所もエムペドクレースと同じくパルメニデースの實有論即ち實に有りといはるべきものは生滅變化すること