コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu03.djvu/10

提供:Wikisource
このページは検証済みです

大學に移る。三十二年六月京都󠄀帝國大學より文󠄁科大學の學科及び組織取調を囑託せらる。これより先三十一年六月イェーナ大學在留中盲膓炎を病み翌年二月ライプチヒにてインフルエンザに罹り大いに健康を損す。尋󠄁いで神󠄀經衰弱󠄁症を起󠄁こし保養の爲め墺太利匈󠄃牙利を漫遊󠄁したれども効なく醫師の勸吿に從ひ七月歸朝󠄁の途󠄁に上り九月神󠄀戶に着し、それより東京及び鎌倉に病を養ふこと數月、稍〻癒ゆ。十一月羅馬字日本語書方取調委員を命ぜらる。七月博士會の上申により文󠄁學博士の學位を受く。同年三月京都󠄀に移りてより腦神󠄀經衰弱󠄁症俄に革まる、靜養すること半󠄃年にして漸く輕快に向ひ、十月下旬轉地療養の爲め鄕里岡山に歸る。三十一日夜半󠄃より激烈なる腹膜炎を發し十一月二日午前󠄁八時逝󠄁く。享年三十六歲三月。岡山の西郊妙林寺に葬る。明治二十六年松井幾子を娶り、一男二女を擧ぐ。長女を道󠄁子、長男を定彥、次女を安子といふ。號は操山、鄕里岡山なる操山みさをやまに因めるなり。(此の小傳は遺󠄁族の編せられたるを殆んど其の儘に揭げたる也)