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Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/354

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らむには。癰疽を病むもの、水に洗ひて樂とせむよりは、病まざらむにはしかじ。こゝにいたりては貧富分くところなし。究竟は理即にひとし。大欲は無欲に似たり。

狐は人にくひつくものなり。堀川殿〈基具〉にて、舍人が寢たる足を狐にくはる。仁和寺にて夜本寺の前をとほる下法師に、狐三つ飛びかゝりてくひつきければ、刀を拔きてこれを拒ぐ間、狐二疋をつく。ひとつはつき殺しぬ。二つは遁げぬ。法師はあまた所くはれながら、ことゆゑなかりけり。

四條黃門命ぜられていはく、「龍秋〈樂人〉は道にとりてはやんごとなきものなり。先日きたりていはく、短慮のいたり極めて荒涼のことなれども、橫笛の五の穴はいさゝかいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず、そのゆゑは、干の穴は平調、五の穴は下無調なり、その間に勝絕調をへだてたり、上の穴雙調、次に鳧鐘調をおきて、夕の穴黃鐘調なり、その次に鸞鏡調をおきて中の穴盤涉調、中と六とのあはひに神仙調あり、かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ上のあひだに調子をもたずして、しかも間をくばることひとしき故に、その聲不快なり、さればこの穴を吹く時はかならずのく、のけあへぬときは物にあはず、吹きうる人かたしと申しき。料簡のいたりまことに興あり。先達後世をおそるといふこと、この事なり」と侍りき。他日に景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛はふきながら、息のうちにてかつしらべもてゆくものなれば、穴ごとに口傳の上に性骨を加へて心を入るゝこと、五の穴のみにかぎらず。ひとへにのくとばかりも定むべか