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絕えぬるに、つれなく見えたり。あさましと思ふに、うらもなく戯ぶるれば、いとねたさに、こゝらの月頃念じつることをいふに、いかなるものと、絕えていらへもなくて、〈開き開きてイ有〉寢たるが、うち驚くさまにて、「いづら。はや寢給へる」といひ笑ひて、人わろげなるまでもあれど、岩木のごとして、明しつれば、つとめて物もいはで歸りぬ。それより後、しひてつれなくて、例のことわり、これとしてかくしてなどあるもいとにくゝて、いひかへしなどして、こと絕えて、二十よ日になりぬ。あらたまれどもて〈とカ〉いふなる日のけしき、鶯の聲などを聞くまゝに、淚のかぬきく〈四字うかぬときイ〉なし。』二月も十よ日になりぬ。聞く所に、十よなん通へると、ちぐさに人はいふ。つれづれとあるほどに、彼岸に入りぬれば、猶あるよには、しやうじせむとて、うはむしろたゞのむしろの淸きぞ敷きかへさすれば、塵拂ひなどするを見るにも、かやうの事は、思ひかけざりしものをなど思へば、いみじうて、
「うちはらふ塵の〈み脫歟〉積るさむしろをなげく敷にはしかじとぞおもふ」。
これよりやがて長さうじして、山寺に籠りなむに、さてもありぬべくば、いかで猶、世の人の絕え易く、そむく方にもやなりなましと思ひ立つを、人々「しやうじは、秋程よりするこそ、いとかしこかなれ」といへば、えさらず思ふべき。そふや〈三字さいふやうイ〉の事もあるを、これすごすべしと思ひて、立たむ月をぞ待つ。さばれ、よろづにこの世のことは、あいなく思ふを、こぞ春吳竹植ゑむとて乞ひしを、この頃奉らむといへば、「いさやありもとぐまじう思ひにたる世の中に、心なげなるわざをやしおかむ」といへば、「いと心せばき御事なり。行基菩薩は、行く