Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/49

提供:Wikisource
このページは校正済みです

いとをかしうもこの御かへりはいかゞ。忘るゝほど思ひやればかくてもありなむ。されどさきざきもいかゞとぞ覺えたるかし。〈康保元年〉春うち過ぎて夏ごろとのえ〈ゐカ〉がちなるうちずみにつとめて一日ありてくるれば參りなどするをあやしうと思ふに、ひぐらしの初聲聞えたり。いとあはれと驚かれて、

 「あやしくもよるの行くへを知らぬかな今日ひぐらしの聲は聞けども」

といふに出でがたかりけむ〈兼家〉〈一字衍歟〉かし。かくてなでふ事なければ、人の心を猶たゆみなたり〈三字なうたのみイ〉にたり。月夜の頃よからぬ物語して、あはれなるさまのことゞも語らひてもありしころ思ひ出でられてものしければかくいはる、

 「くもり〈るカ〉夜の月と我が身の行く末のおぼつかなら〈さカ〉はいづれまされり」。

かへりごとたはぶれのやうに、

 「敎へける月は西へぞ行くさきは我のみこそはしかる〈しるべカ〉かりけれ」

などたのもしげに見ゆれど、我が家とおぼしき所はことになんめれば、いと思はずにのみぞ世はありける。さいはひある人のためには年月見し人も、あまたの子などもたらぬを、かくものはかなくて思ふことのみ繁し。さいふいふも女親といふ人〈著者母〉あるかぎりはありけるを、久しうわづらひて秋の初のころほひむなしくなりぬ。さらにせむかく〈たカ〉なくわびしき事のよのつねの人にはまさりたり。あまたある中にこれはおくれじおくれじと惑はるゝもしるくいかなるにかあらむ。足手など唯すくみにすくみて絕え入るやうこ〈にカ〉す。さいふいふものを