Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/387

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ろきに、名殘思ひ出でられむ」と言の葉を盡していへるに、今はいぬらむと遠く見送るほどに、えも言はず艷なる程なり。出づるやうに見せて立ち歸り、立蔀あいたる陰のかたに添ひ立ちて、猶ゆきやらぬさまもいひ知らせむと思ふに「有明の月のありつゝも」とうちいひて、さしのぞきたる髮の頭にも寄りこず、五寸ばかりさがりて火ともしたるやうなる月の光、催されて驚かさるゝ心ちしければ、やをら立ち出でにけりとこそかたりしか。

女房のまゐりまかでするには、車を借る折もあるに、こゝろよそひしたる顏にうち言ひて貸したるに、牛飼童の例の牛よりもしもざまにうち言ひて、いたう走り打つも、あなうたてと覺ゆかし。をのこどもなどの物むつかしげなる氣色にて「いかで夜更けぬさきに追ひて歸りなむ」といふは、猶主の心おしはかられてとみの事なりと、又言ひ觸れむとも覺えず、業遠の朝臣の車のみや、夜中あかつきわかず人の乘るに、聊さる事なかりけむ、よくぞ敎へ習はせたりしか。道に逢ひたりける女車の深き所におとし入れて、得引き上げで牛飼のはらだちければ、我が從者してうたせさへしければ、まして心のまゝに誡め置きたるに見えたり。

すきずきしくて獨住する人のよるはいづらにありつらむ、曉に歸りてやがて起きたる、まだねぶたげなる氣色なれど硯とり寄せ墨こまやかに押し磨りて事なしびに任せてなどはあらず、心とゞめて書くまひろげ姿をかしう見ゆ。白ききぬどもの上に山吹紅などをぞ着たる。白きひとへのいたくしぼみたるを、うちまもりつゝ書き立てゝまへなる人にも取らせず、わざとだちてこどねりわらはのつきづきしきを身近く呼び寄せて、うちさゝめきていぬる後