Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/349

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て止みぬる折ぞ多かる。とみに物もとむるに見出でたる。唯今見るべき文などをもとめ失ひて、よろづの物をかへすがへす見たるに搜し出でたるいとうれし。物あはせ何くれといどむことに勝ちたるいかでか嬉しからざらむ。又いみじう我はと思ひてしたりがほなる人はかり得たる、女どち〈などイ〉よりも男はまさりてうれし。これがたふは必せむずらむとつねに心づかひせらるゝもをかしきに、いとつれなくなにとも思ひたらぬやうにてたゆめ過すもをかし。にくきものゝあしきめ見るも罪は得らむと思ひながらうれし。挿櫛むすばせてをかしげなるも又うれし。思ふ人は我が身よりもまさりてうれし。御前に人々所もなく居たるに、今のぼりたれば少し遠き柱もとなどに居たるを、御覽じつけて「こちこ」と仰せられたれば、道あけて近く召し入れたるこそ嬉しけれ。御前に人々あまた物仰せらるゝついでなどにも、世の中のはらだゝしうむつかしう片時あるべき心ちもせで、いづちもいづちもいきうせなばやと思ふに、たゞの紙のいと白う淸らなる、よき筆、白き色紙、みちのくに紙など得つれば、かくてもしばしありぬべかりけりとなむ覺え侍る。又高麗緣の疊の筵靑うこまかに、へりの紋あざやかに黑うしろう見えたる、引き廣げて見れば、「何か猶さらにこの世はえおもひはなつまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば「いみじくはかなき事も慰むなるかな。姥捨山の月はいかなる人の見るにか」と笑はせ給ふ。さぶらふ人も「いみじくやすき息災のいのりかな」といふ。さて後にほど經て、すゞろなる事を思ひて、里にあるころめでたき紙を二十つゝみにつゝみて賜はせたり。仰せ事には「とく參れ」などのたまはせて「これは聞しめし置きた