Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/311

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せむとの給ふ。一所だにあるに又さきうちおはせて同じ直衣の人參らせ給ひて、これは今少しはなやぎさるがうごとなどうちし、譽め笑ひ興じ、我もなにがしがとある事かゝる事など殿上人のうへなど申すを聞けば、猶いと變化の物天人などのおりきたるにやと覺えてしを、侍ひ馴れ、日ごろ過ぐれはいとさしもなき業にこそありけれ。かく見る人々も家のうち出でそめけむ程はさこそは覺えけめど、かくしもて行くにおのづからおも馴れぬべし。物など仰せられて「我をば思ふや」と問はせ給ふ。御いらへに「いかにかは」と啓するに合せて、臺盤所のかたに、はなをたかくひたれば、「あな心う。そらごとするなりけり。よしよし」とていらせ給ひぬ。いかでかそらごとにはあらむ。よろしうだに思ひきこえさすべき事かは。はなこそはそらごとしけれとおぼゆ。さてもたれかかくにくきわざしつらむと、大かた心づきなしと覺ゆれば、わがさる折もおしひしぎかへしてあるを、ましてにくしと思へど、まだうひうひしければともかくも啓しなほさで、明けぬればおりたるすなはち淺綠なるうすえふにえんなる文をもてきたり。見れば、

 「いかにしていかに知らましいつはりをそらにたゞすの神なかりせば〈中宮〉

となむ、御けしきは」とあるにめでたくも口をしくも思ひ亂るゝに、なほよべの人ぞたづね聞かまほしき。

 「うすきこそそれにもよらぬはなゆゑにうき身のほどを知るぞわびしき。〈淸少納言〉

猶こればかりは啓しなほさせ給へ。しきの神もおのづからいと畏し」とて參らせて後もうた