Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/271

提供:Wikisource
このページは校正済みです

るに佛のきらきらと見え給へるいみじくたふとげに、手ごとに文を捧げてらいはんに向ひてろぎちかふも、さばかりゆすりみちて、これはと取りはなちて聞きわくべくもあらぬに、せめてしぼり出したるこゑごゑのさすがに又紛れず。「千とうの御志はなにがしの御ため」とわづかに聞ゆ。おびうちかけて拜み奉るに、「こゝにかうさぶらふ」といひてしきみの枝を折りてもてきたるなどのたふときなどもなほをかし。犬ふせぎのかたより法師寄りきて「いとよく申し侍りぬ。いくかばかりこもらせ給ふべき」など問ふ。「しかしかの人こもらせ給へり」などいひ聞かせていぬるすなはち火桶くだ物などもてきつゝかす。はんざふに手水など入れてたらひの手もなきなどあり。「御ともの人はかの坊に」などいひて呼びもて行けば、かはりがはりぞゆく。ずきやうの鐘のおとわがなゝりと聞けばたのもしく聞ゆ。かたはらによろしき男のいと忍びやかにぬかなどつく。たちゐのほども心あらむと聞えたるが、いたく思ひ入りたる氣色にて、いもねず行ふこそいと哀なれ。うちやすむ程は經高くは聞えぬほどに讀みたるもたふとげなり。高くうち出でさせまほしきにまして鼻などをけざやかに聞きにくゝはあらで、少し忍びてかみたるは何事を思ふらむ。かれをかなへばやとこそ覺ゆれ。日ごろこもりたるに晝は少しのどかにぞ早うはありし。法師の坊にをのこどもわらはべなどゆきてつれづれなるに、唯かたはらにかひをいと高く俄かに吹き出したるこそ驚かるれ。淸げなるたて文などもたせたる男のずきやうの物うち置きて、堂童子など呼ぶ聲は山ひゞきあひてきらきらしう聞ゆ。鐘の聲ひゞきまさりていづこならむと聞く程に、やんごとなき所