Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/269

提供:Wikisource
このページは校正済みです

     あはれなるもの

孝ある人の子、鹿の音。よき男のわかきがみたけさうじしたる。へだて居てうちおこなひたる〈十三字いでゐたらむイ〉曉のぬかなどいみじうあはれなり。むつましき人などの目さまして聞くらむ思ひやり〈るイ〉。まうづる程のありさまいかならむとつゝしみ〈おぢイ〉たるにたひらかにまうでつきたるこそいとめでたけれ。ゑばうしのさまなどぞすこし人わろき。猶いみじき人と聞ゆれどこよなくやつれてまうづとこそは知りたるに、右衞門の佐信賢はあぢきなきことなり「たゞ淸き衣を着てまうでむになでふ事かあらむ。かならずよもあしくてよとみたけのたまはじ」とて三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、しろき靑山吹のいみじくおどろおどろしきなどにて、たかみつがとのもりのすけなるは靑色の紅のきぬ、摺りもとろかしたる水干袴にて、うちつゞき詣でたりけるに、歸る人もまうづる人も珍らしくあやしき事に、すべてこの山道にかゝる姿の人見えざりつとあさましがりしを、四月晦日に歸りて六月十餘日の程に筑前の守うせにしかはりになりにしこそげにいひけむにたがはずもと聞えしか。これは哀なることにはあらねども、みたけのついでなり。九月三十日、十月一日の程に唯あるかなきかに聞きつけたるきりぎりすの聲。鷄の子いだきて臥したる。秋深き庭の淺茅に露の色々玉のやうにて光りたる。川竹の風に吹かれたる夕暮。曉にめざましたる夜などもすべて。思ひかはしたる若き人の中にせくかたありて心にしも任せぬ。山里の雪。男も女も淸げなるが黑き衣着たる。二十六七日ばかりの曉に物語してゐあかして見れば、あるかなきかに心細げなる月の山の