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ある」とあれば、よろしからむにてだにゆゝし、ましていみじくとあるもじには命もさながら捨てゝなむとて參りにき。
しきのみざうしにおはします頃、西の廂にふだんの御どきやうあるに、佛などかけ奉り法師の居たるこそ更なる事なれ。二日ばかりありてえんのもとにあやしき者の聲にて「猶その佛供のおろし侍りなむ」といへば「いかでまだきには」といらふるを、何のいふにかあらむと立ち出でゝ見れば、老いたる女の法師の、いみじくすゝけたるかりばかまのつゝとかやのやうに細く短きを、帶より下五寸ばかりなるころもとかやいふべからむ、おなじやうにすゝけたるを着て猿のさまにていふなりけり。「あれは何事いふぞ」といへば、聲ひきつくろひて「佛の御弟子にさふらへば、佛のおろしたべと申すを、この御坊たちの惜みたまふ」といふ。はなやかにみやびかなり。かゝるものはうちくんじたるこそあはれなれ、うたてもはなやかなるかなとて「ことものはくはで佛の御おろしをのみくふがいとたふときことかな」と言ふけしきを見て「などかことものもたべざらむ。それがさふらはねばこそ取り申し侍れ」といへば、くだもの、ひろきもちひなどを物に取り入れて取らせたるに、むげに中よくなりてよろづの事をかたる。わかき人々出できて「男やある。いづこにか住む」など口々に問ふに、をかしきことそへごとなどすれば「歌はうたふや。舞などするか」と問ひもはてぬに「よるはたれとねむ。常陸のすけとねむ。ねたるはだもよし」。これが末いと多かり。又「男山の峯のもみぢ葉さぞ名はたつたつ」と頭をまろがしふる。いみじくにくければ、笑ひにくみて、「いねいね」とい