Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/19

提供:Wikisource
このページは校正済みです

三十日、雨風ふかず。海賊は夜あるきせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出して阿波のみとを渡る。夜中なれば西ひんがしも見えず、男女辛く神佛を祈りてこのみとを渡りぬ。寅卯の時ばかりに、ぬ島といふ所を過ぎてたな川といふ所を渡る。からく急ぎて和泉の灘といふ所に至りぬ。今日海に浪に似たる物なし。神佛の惠蒙ぶれるに似たり。けふ船に乘りし日より數ふればみそかあまり九日になりにけり。今は和泉の國に來ぬれば海賊ものならず。

二月朔日、あしたのま雨降る。午の時ばかりにやみぬれば、和泉の灘といふ所より出でゝ漕ぎ行く。海のうへ昨日の如く風浪見えず。黑崎の松原を經て行く。所の名は黑く、松の色は靑く、磯の浪は雪の如くに、貝のいろは蘇枋にて五色に今ひといろぞ足らぬ。この間に今日は箱の浦といふ所より綱手ひきて行く。かく行くあひだにある人の詠める歌、

 「玉くしげ箱のうらなみたゝぬ日は海をかゞみとたれか見ざらむ」。

又船君のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人もいふことゝて心やりにいへる歌、

 「ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり」。

聞く人の思へるやう。なぞたゞごとなると密にいふべし。「船君の辛くひねり出してよしと思へる事をえしもこそしいへ」とてつゝめきてやみぬ。俄に風なみたかければとゞまりぬ。

二日、雨風止まず。日ひとひ夜もすがら神佛をいのる。

三日、海のうへ昨日のやうなれば船いださず。風の吹くことやまねば岸の浪たちかへる。こ