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 「我が思ふ人はたそとは見なせどもなげきのえだにやすまらぬかな」

などぞいふめる。今年いたうあるゝことなくて、はだら雪ふたゝびばかりぞ降りつる。佐の朔日のものものども〈四字の具とてイ〉白馬にものすべきなどものしつるほどに、暮れはつる日にはなりにけり。明日のものをりまかせつゝ、人にまかせなどして思へば、かうながらこ〈にイ〉ひけふになりにけるもあさましう、みたまなど見るにも、例の盡きせぬことにおぼゝれてぞはてにける。年のはてなれば、夜いたう更けてぞたゝきくなる。今に平に〈流布本有本ノマヽ四字〉

〈以下後人所挿添〉

佛名のあしたに雪の降りければ、

 「年の內に積み消す庭にふる雪はつとめてのちはつもらざらなむ」。

殿かな〈れイ〉給ひて久しうありて、七月十五日ぼと〈にイ〉のことな〈ど脫歟〉きこえのたまへるつかそつかそとよ〈八字御返り事にイ〉

 「かゝりけるこの世も知らず今とてやあはれはちすの露をまつらむ」。

四の宮〈爲平親王〉の御ねの日に、殿にかはり奉りて、

 「峰の松おのがよはひの數よりもいまいく千世ぞきみにひかれて」。

その子の日の日記を宮に侍ふ人に、借り給へりけるを、その年は后宮〈安子村上后〉うせさせ給へりけるほどに暮れはてぬれば、又の年の春かへし給ふとて、はしに、

 「袖の色かはれる春を知らずしてこぞにならへる野邊のまつらむ〈かもイ〉」。