Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/12

提供:Wikisource
このページは校正済みです

やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず」。

これならず多かれども〈もイ無〉書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども心は少しなぎぬ。かくゆきくらして泊にいたりて、おきな人ひとり、たうめ一人あるがなかに、心ちあしみしてものも物し給はでひそまりぬ。

十日、けふはこの那波の泊にとまりぬ。

十一日、曉に船を出して室津をおふ。人皆まだねたれば海のありやう〈二字さまイ〉も見えず。唯月を見てぞ西東をば知りける。かゝる間に皆夜明け手あらひ例の事どもして晝になりぬ。いましはねといふ所にきぬ。わかき童この所の名を聞きて「はねといふ所は鳥の羽のやうにやある」といふ。まだ幼き童のことなれば人々笑ふ。時にありける女の童なむこの歌をよめる、

 「まことにて名に聞く所はねならば飛ぶがごとくにみやこへもがな」

とぞいへる。男も女もいかで疾く都へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねどげにと思ひて人々わすれず。このはねといふ所問ふ童の序にて〈ぞイ〉、又昔の人を思ひ出でゝいづれの時にか忘るゝ。今日はまして母の悲しがらるゝ事は、くだりし時の人の數足らねば、ふるき歌に「數はたらでぞかへるべらなる」といふことを思ひ出でゝ人のよめる、

 「世の中におもひや〈あイ〉れども子を戀ふる思ひにまさる思ひなきかな」

といひつゝなむ。