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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/105

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ひ給へねど、詠むるほどになむ〈如元〉、はかなくて過ぎつ。日數ぞつもりにける。

  かけてだに思ひやはせし山深く入りあひの鐘に音を添へむとは」。

又の日かへりごとあり、「事は書きあふべくもあらず。入相になむ肝碎く心ちする」とて、

 「いふよりも聞くぞ悲しき敷島の世にふるさとの人やも〈なイ〉になり〈如元〉

とあるをいとあはれに悲しくながむる程に、とのゐの人數多ありしなかに、いかなる心あるにかあらむ、こゝにある人の許に、いるをう〈四字いひおこカ〉せたるやう、「いづれもおろかに思ひ聞えさせざりし御すまひなれど、まかでしよりは、いとゞ珍らかなるさまになむ思ひ出で聞えさする。いかにおもとたちも思し見奉らせ給ふらむ。賤しきもといふなれば、すべてすべて聞えさすべき方なくなむ。

  身を捨てゝうきをも知らぬ旅だにも山路にもふかく思ひこそ入れ」

といひたるを、もて出でゝ讀み聞かするに、又いといみじ。かばかりの事も、又いとかく覺ゆる時あるものなりけり。「はや返ごとせよ」とてあれば「をだ卷はかく思ひ知る事も難き事よと思ひつるを、御まへにもいとせきあへぬまでなむ思しためるを見奉るも唯推し量り給へ。

  思ひ出づる時ぞかなしき奧山のこのしたつゆのいとゞしげきに」

となむいふめる。大夫〈道綱〉「一日の御かへりいかで賜はらむ。又かんだうありなむをもて參らむ」といへば、「なにかは」とて、「かく即ち聞えさすべく思うたまへしを、いかなるにかあらむ、詣で難くのみ思ひてはんべめるたよりになむまかでむことは、いつとも思う給へわかれね