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が、後には六條の左大臣殿の御子の左大辨のうへにておはしけるは四君とこそは。又花山院の御妹の君、一宮はうせ給ひにき。女二君は圓融院の御時の齊宮にたゝせ給ひて、天延三年になり給ひて、貞元三年に圓融院の御時女御に參り給へりし。程もなく內の燒けにしかば火の宮と世の人もつけ奉りき。さて一二度參り給ひて程もなくうせさせ給ひにき。この宮に御覽ぜさせむとて三寶繪はつくれるなり。男君達は代明の親王の御女のはらに藏人の前少將後少將とて花を折り給ひし君達の、殿うせ給ひて三年ばかりありて、天延二年甲戌のとし、もがさおこりたるに煩ひたまひて前の少將は朝に失せ給ひ後の少將は夕にかくれ給ひしぞかし。一日がうちに二人の子を失ひ給へりし母北の方の御心ちいかなりけむ、いとこそ悲しく承りしか。後少將は義孝とぞきこえし。御かたちいとめでたくおはし年ごろきはめたる道心者にぞおはしける。病重くなるまゝに生くべうも覺え給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、「おのれ死に侍りぬとも、とかく例のやうにせさせ給ふな。しばし法華經誦じ奉らむの本意侍れば、必ずかへりまうでくべし」とのたまうて、方便品を讀み奉り給ひてぞうせ給ひける。その遺言を母北の方忘れ給ふべきにあらねど物覺えでおはしければ、思ふに人のし奉りてけるにや、枕がへしなどにやと、例のやうなるありさまどもにしてければ、えかへり給はずなりにけり。後に母北の方の御夢に見えたまひける、

  「しかばかり契りしもの〈ことイ〉をわたり川かへるほどには忘るべしやは」

とぞよみ給へりける。いかなる心ちし給ふ、悔しくおばしけむな。さてのちほどへて賀緣阿