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しこも軍とのみ聞えて日數ふるに、院よりのたまふとて上達部殿上人までも、ほどほどに隨ひてつはものを召せば、弓ひく道もおぼおぼしき若侍などをさへぞ奉りける。げにひぢもをりぬべき世の中なり。かやうにいひしろふ程に彌生もくれぬ。卯月の十日餘り又あづまよりものゝふ多くのぼる中に、をとゝし笠置へも向ひたりし治部大輔源高氏のぼれり。院にも賴もしくきこしめしてかの伯耆の船上へ向ふべきよし院宣たまはせけり。あづまを立ちし時もうしろめたく二心あるまじきよし、おろかならずちかごとぶみを書きてけれども、そこの心やいかゞあらむ、かく聞ゆるすぢもありけり。この高氏はいにしへの賴義朝臣の名殘なりければ、もとのねざしはやんごとなき武士なれど、承久よりこのかた頭さしいだす源氏もなくてうづもれすぐしながら、類ひろく勢四方にみちて、國々に心よせのもの多かればかやうに國の危きをりをえて思ひたつ道もやあらむなどしたにさゝめくもしるく、伯耆國へむかふべしといひなして先づ西山大原わたりに一とまりして、五月七日ほのぼのと明くるほどより大宮の木戶どもをおしひらきて、二條よりしも七條の大路を東ざまに七手に別れて旗をさしつゞけて六波羅をさして雲霞の如くたなびき入るに、更におもてをむかふるものなし。この治部の大輔はやうより先帝の勅を承りければ、さかさまに都を亡さむとするなりけり。鬨つくるとかやいふ聲は雷の落ちかゝるやうに、地の底もひゞき、梵天の宮の中も聞き驚き給ふらむと思ふばかりとよみあひたるさま、來しかたゆくさきくれて物覺ゆる人もなし。御門、春宮、院のうへ、宮たちなどましてひとりさかしきもおはしまさず。絲竹のしらべ