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かにと聞えさせ給ふ。御使の行きかへる程を猶いぶ〈せイ有〉がらせ給ふにむ月もたちぬ。いかさまにおはしますべきにかと誰も誰もおぼし惑ふ事かぎりなし。かねてよりかやうのためとおぼしおきける壽量院へ二月七日わたり給ふ。こゝへはおぼろげの人はまゐらず。南松院の僧正、淨金剛院の長老覺道上人などのみ御前にて法の道ならではのたまふ事もなし。六波羅北南御とぶらひに參れり。西園寺の大納言實兼例の奏したまふ。一日行幸あり。中一日わたらせ給へば、泣く泣く萬の事を聞えおかせ給ふ。新院も御對面あり。御門は御本性いと華やかにかしこく御才などもむかしにはぢず、何事もとゝのほりてめでたくおはします。世ををさめさせ給はむ事も後めたからずおぼせば、聞え給ふすぢことなるべし。十七日の朝より御氣色かはるとて善智識めさる。經海僧正、往生院の聖など參りてゆゝしき事ども聞え知らすべし。遂にその日の酉の時に御年五十三にてかくれさせ給ひぬ。後嵯峨院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて闇にまよふ心ちすべし。十八日に藥草院におくり奉り給ふ。仁和寺の御室、圓滿院、聖護院、菩提院、靑蓮院、皆御供つかまつらせ給ふ。內より頭中將御使にまゐる。三十年がほど世をしたゝめさせ給ひつるに、少しのあやまりなくおぼすまゝにて新院御門春宮うごきなく、又外ざまに別るべき事もなければ、おぼしおくべき一ふしもなし。なき御跡まで人の靡きつかうまつれるさまきし方もためしなき程なり。廿三日御初七日に大宮院御ぐしおろす〈一字さるイ〉。その程いみじく悲しき事おほかり。天の下おしなべてくろみ渡りぬ。萬しめやかに哀なる世のけしきに心あるも心なきも淚催さぬはなし。院、內の