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じ。さは三條院の御末はたえねと思しめしおきてさせ給ふがいとあさましく悲しき御事なり。かゝる御心のつかせ給ふ御事はこと事ならじ。故冷泉院の御物のけなどの思はせ奉るなり。さらさら〈な脫歟〉おぼしめしそ」と啓し給ふに、「さらば唯ほいもあり。すけにこそはあなれ」とのたまはするに「さまで思しめすことならばいかゞは。ともかくも申さむ。內に奏し侍りてを」と〈如元〉させ給ふをりにぞ御氣色いとよくならせ給ひにける。さて殿うちに參らせ給ひて大宮にも內にも申させ給ひければ、いかゞは聞かせ給ひけむな。「このたびの東宮には式部卿の宮をとこそは思しめすべけれ。一條院のはかばかしき御後見なければ東宮に當代を立て奉るなり」と仰せられしかば、これもおなじ事なりとおぼし定めて、寬仁元年丁巳八月五日こそは九歲にて三宮東宮に立たせ給ひて、同月の廿三日にこそは壺切といふ太刀は內よりもて參りしか。當代位に即かせ給ひしかば、即ち東宮にも參るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりてこの年頃內のをさめ殿に候ひつるぞかし。寬仁三年己未八月廿八日、御年十一にて御元服せさせ給ひしか。さきの東宮をば小一院と申す。今の東宮の御有樣申す限なし。つひの事とは思ひながら、唯今かくとは思ひかけざりしことなりかし。小一條院、我が御心もてのがれ給へることは、これをはじめとす。世はじまりて後、東宮位とりさげられ給ふことは、八七代ばかりにやなりぬらむ。なかに法師東宮おはしけるこそは、うせ給ひてのちに贈太上天皇と申して祝ひすゑられ給へれ。おほやけもしろしめして崇道天皇とて官物のはつほさきに奉らせ給ふめり。この院のかくおぼし立ちぬる事、かつは殿下の御報の