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くて世をなびかししたゝめ行ふ事もほとほとふるきにはこえたり。まめやかにめざましき事も多くなりゆくに、院のうへ忍びておぼしたつ事などあるべし。近くつかうまつる上達部殿上人、まいて北面の下﨟西おもてなどいふも皆この方にほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし。劔などを御覽じ知ることさへいかで習はせ給ひたるにか、道のものにもやゝたちまさりてかしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。かやうのまぎれにて承久も三年になりぬ。四月二十日御門おりさせ給ふ。春宮四つにならせ給ふにゆづり申させ給ふ。近頃皆この御齡にて受禪ありつれば、これもめでたき御行く末ならむかし。おなじき廿三日院號のさだめありて今おりさせ給へるを新院ときこゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をは本院とぞ聞えさする。この程は家實のおとゞ〈普賢寺殿の御子〉關白にておはしつれど、御讓位の時左大臣道家のおとゞ〈光明峯寺殿。〉攝政になりたまふ。かのあづまの若君の御父なり。さても院のおぼし構ふる事忍ぶとすれど、やうやう漏れ聞えてひがしざまにもその心づかひすべかめり。あづまの代官にて伊賀の判官光季といふものあり。かつかつかれを御かうじのよし仰せらるれば、御方に參るつはものどもおしよせたるに、遁るべきやうなくて腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ院は思し召しける。あづまにもいみじうあわてさわぐ。さるべくて身のうすべき時にこそあなれと思ふものから、討手の攻め來りなむときにはかなきさまにてかばねをさらさじ、おほやけと聞ゆとも自らし給ふ事ならねば、かつは我が身の宿世をも見るばかりと思ひを〈なイ〉りて、弟の時房と泰時といふ一男と二人をか