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奉れる八幡の御社にじんばいにまうづる。いといかめしきひゞきなれば、國々の武士はさらにもいはず、都の人々も扈從しけり。立ちさわぎのゝしるもの、見る人もおほかるなかに、かの大とこうちまぎれて、女のまねをして白きうす衣ひきをり、おとゞの車よりおるゝほどをさしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうちおとしぬ。その程のどよみいみじさ思ひやりぬべし。かくいふは承久元年正月廿七日なり。そこらつどひ集れるものども、たゞあきれたるより外のことなし。京にもきこしめしおどろく。世の中火をけちたるさまなり。扈從に西園寺の宰相中將實氏も下り給ひき。さならぬ人々もなくなく袖をしぼりてぞ上りける。いまだ子もなければ立ちつぐべき人もなし。事しづまりなむほどゝて、故おとゞの母北の方二位殿〈政子〉といふ人、二人の子をもうしなひて、淚ほすまもなくしをれすぐすをぞ、將軍に用ゐける。かくてもさのみはいかゞにて、「君だち一所下し聞えて將軍になし奉らせ給へ」と公經のおとゞに申しのぼせければ、あへなむとおぼす所に、九條の右〈左イ〉大臣道家殿のうへは、このおとゞの御むすめなり。その御腹の若君の二つになり給ふを、下しきこえむと九條殿のたまへば、御うまごならむもおなじ事とおぼして定め給ひぬ。その年の六月にあづまにゐて奉る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのなかの御ありさまは唯かたしろなどを祝ひたらむやうにて、萬の事さながら右京權大夫義時朝臣心のまゝなり。一の人の御子の將軍になり給へるはこれぞ始めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「賴朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるはこの今の若君の御事にこそありけめ。か