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どまでせられけるとぞ。さて其のうへども皆中よくて、いひかはしつゝぞおはしける。この中納言の御子は、中宮の大夫師忠のむすめのはらに、師仲中納言とておはする、右衞門の督のいくさおこしたりし折、あづまに流され給ひて歸りのぼりておはすとぞ。この兄ども、少納言大藏卿などきこゆるあまたおはしき。おほいとのゝ御子は、入道中納言師俊とておはしき。大辨の宰相より中納言になりて、治部卿など申しゝ程に、御病によりて、かしらおろし給ひて、たうのもとの入道中納言とぞきこえ給ひし。それも物よく習ひ給ひて、詩など作り給ふ。歌よみにもおはしき。この兄おとうとたち、かやうにおはする、ことわりと申しながらいとありがたくなむ。延喜天曆二代のみかど、かしこき御世におはします上に、ふみ作らせ給ふ方もたへにおはしますに、中務の宮又すぐれ給へりけり。土御門殿、堀河殿あひつぎて、御身のざえ、文つくらせ給ふ方もすぐれ給へるに、土御門殿は才すぐれ、堀河殿は、ふみ作り給ふこと、すぐれておはすとぞきこえ給ひける。この大納言中納言たち、かく仕へ給ひて、六代かくおはする、いと有りがたくやんごとなし。この大納言中納言殿たちの詩も歌も、集どもに多く侍らむ。中納言の御子は、少納言になり給へりし、後は大宮亮とぞきこえける。そのおとうとは寬勝僧都とて、山におはしけるこそ、あめつちといふ女房の、みめよきが生みきこえたりければにや。みめもいときよらに、心ばへもいとつきつきしき學生にて、山の探題などいふこともしたまひけるに、あるべかしくいはまほしきさまに、いとめでたくこそおはしけれ。說法よくし給ひけるに、人にすぐれても聞こえ給はざりしかど、ある所にて、阿彌陀佛