Page:Kokubun taikan 07.pdf/414

提供:Wikisource
このページは校正済みです

り」といへば、いと心ゆきて「何をか習ひ給ふべき」といふに「大食調の入調なむまだ知らぬものにて、うけたまはらむと思ひたまふる」といふに、けしきかはりて、太郞子に侍りける公里が前なりけるを、「此のわらはに敎へ侍りてのちにこそこと人には授けたてまつらめ。これは忽におぼしよるまじき事」と云ひければ、「この君傳へられむこと、忽の事にあらじ」とて、名簿とりかへして、歸り出でゝ、年經ける後、心ふかくうかゞひて、聞かむとするなりけり。昔の物の師は、かくなむ心ふかくて、たはやすくも授けざりける。その大納言は、さやうに道をたしなみて、やんごとなくなむおはしける。

     から人の遊び

按察の御子にて、備中守實綱といひし博士のむすめの腹に、右大臣宗忠のおとゞ、また堀河の左のおとゞの御むすめのはらに、太政のおとゞ宗輔など、近くまでおはしき。右のおとゞは中の御門のおとゞとて、催馬樂の上手におはして、御遊びなどには、つねに拍子とり給ひけり。才學おはして、尙齒會とて、年老いたる時の詩作りのなゝたり集まりて、文作ることおこなひ給ひき。から國にては、白樂天ぞ序かきたまひて、行ひ給ひけり。この國には、これ加へて、三たびになりにけり。からぐにゝは、ふたゝびまでまさりたることに聞こえ侍りしに、近くわたりたるから人のまた後に行ひたる、もてわたりたりけるとぞ聞き侍りし。年の老いたるを、上﨟にて、庭に居並びて詩作りなど遊ぶ事にぞ侍るなる。此のたびは、諸陵の頭爲康といふ翁、一の座にて、その次にこのおとゞ、大納言とておはしけむ。いとやさしく侍りし、