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え侍るなり」」といへば、聞く人々「「げにげにいみじきすきものにもものし給ひけるかな。今の人はさる心ありなむや」」と感じあへり。「「又雨のふる日、うちながめ給ひて

  「あめのしたかわける程のなければや着てし濡衣ひるよしもなき」。

やがてかしこにてうせ給へる、夜の內に、この北野にそこらの松をおほさしめ給ひて渡り住み給ふをこそは唯今の北野宮と申して、あら人神におはしますめれ。おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこく崇め奉り給ふめり。筑紫のおはしまし所は安樂寺といひて、おほやけより別當所司などなさせ給ひていとやんごとなし。內裏燒けて度々造らしめ給ひしも、圓融院の御時のことなり。たくみども、裏板どもをいとうるはしくかなかきて罷り出でつゝ、またのあしたに參りて見るに、昨日の裏板に物のすゝけて見ゆる所のありければ、はしにのぼりて見るに、夜の內に蟲のはめるなりけり。そのもじは、「つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあらむかぎりは」とこそありけれ。それもこの北野の顯はし給へるとこそは申すめりしか。かくてこのおとゞは筑紫におはして、延喜三年みづのとのゐ二月廿五日にうせ給ひしぞかし。御年五十九。さて後七年ばかりありて左大臣時平のおとゞ、延喜九年己巳四月四日うせ給ふ。〈去年ばかりやおはしけむ。〉御年卅九。大臣の位にて十一年ぞおはしける。本院の大臣と申す。この時平のおとゞのむすめの女御もうせ給ひぬ。御孫の東宮も、一男八條の大將保忠卿もうせ給ひにきかし。この大將八條にすみ給へば、うちに參り給ふほどいとはるかなるにいかゞおぼされけむ、冬はもちひのいと大きなるをぞひとつ、ちひさきをばふたつ燒きてや