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を、御厨子にとりおかせ給ひて、さらぬ物は御あたりに見ゆるものなかりけり。ましてたちぬはぬ物などは、御前にとりいださるゝことなくて、かたしはぶきうちせさせ給ひて、たゞ一所おはしまして、近習の上﨟下﨟などを、とりどり召しつかひつゝおはしましける。おのおの御有樣かはらせ給ひてなむ聞え侍りし。仁平二年三月七日近衞の御門、鳥羽の院に行幸せさせ給ひて、法皇の五十の御賀せさせ給ひき。等身の御佛、壽命經もゝまき、玉のかたち〈かざりイ〉をみがき、黃金の文字になむありける。僧はむそぢの數、ひきつらなりて、佛をほめたてまつり、舞人は近きまぼりのつかさ、雲の上人靑色のわきあけに、柳さくらの下襲、平やなぐひの水晶のはず日の光りにかゞやきあへり。つぎの日も猶とゞまらせ給ひて、法皇をがみたてまつり給ふ。さまざまの供へども庭もせにつらねてたてまつらせたまふ。池の船、春の調べとゝのへて、みぎはに漕ぎよせて、おのおのおりて左右のまひの袖ふりき。靑海波、左のおとゞの御子、右大將の孫の中將の公達舞ひ給ふ。はてには、左大將の御子とて、胡飮酒、童舞し給ふ。ふるきあと、家のことなれば、かづかり給ふ御ぞ、父のおとゞとりて、袖ふり給ひて庭におりてよろこび申しのやうに、更に拜し給ふ。ゆふ日のかげに紅の色かゞやきあへり。其の若君は、誠は御わらは名、くま君とて、前中納言師仲の子を大將殿の子にし給へるとぞ。この若君の母は、鳥羽の院の御子たち生み奉られたる人とぞきゝたてまつりし。かやうにはなやか侍にりしほどに、なか二年ばかりや隔て侍りけむ。近衞のみかど、かくれさせ給ひしかば、おぼしめし歎きて、鳥羽に籠もりゐさせ給ひて、年のはじめにも、門廊などさして、人もまゐ