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鳥羽のみかどの御母の女御どのも參り給ひて、院もてなしきこえさせ給へば、はなやかにおはしましゝかども、中宮はつきせぬ御心ざしになむきこえさせたまひし。女御うせさせ給ひてのころ、

  「梓弓はるの山べのかすみこそ戀しき人のかたみなりけれ」

とよませ給へりけるこそ、あはれに御なさけ多くきこえ侍りしか。末の世のみかど、廿一年までたもたせ給ふ、いとありがたき事なり。時の人を得させ給へる、誠にさかりなりけり。一のかみにて堀河の左のおとゞ物かく宰相にて通俊、匡房、藏人頭にて季仲あり。「昔に耻ぢぬ世なり」などぞおほせられける。みちみちの博士も、すぐれたる人、多かる世になむ侍りし。このみかどみそぢにだに滿たせ給はぬ世の惜みたてまつる事、限りなかるべし。その御ありさま內侍のすけ讃岐とか聞こえ給ひし、こまかにかゝれたるふみ侍りとかや。人のよまれしを、ひとかへりは聞き侍りし。この中にも御覽じてやおはしますらむ。

     ところどころの御寺

此のみかどの御母、權中納言隆俊の御むすめの腹に、六條の右のおとゞの御むすめにおはしましゝ大殿の御子にしたてまつりて、延久三年三月九日御とし十五にて、白河院東宮におはしましゝ御息所にまゐらせ給へり。同五年七月廿三日女御ときこえ給ひて、四位の位給はり給ふ。承保元年六月廿日きさきに立ち給ふ。御とし十八におはしましき。十二月二十六日前坊うみたてまつらせ給ふ。三年四月五日郁芳門院うまれさせ給ひて、その後二條の大ぎさき