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と申しける時より、和歌をも重くせさせ給ひて、位にても後拾遺あつめさせ給ふ。院の後も金葉集えらばせ給へり。いづれにも御製ども多く侍るめり。承保三年十月廿四日、大井川にみゆきせさせ給ひて、嵯峨野に遊ばせ給ひ、みかりなどせさせ給ふ。そのたびの御歌、

  「大井川ふるき流れを尋ねきてあらしの山の紅葉をぞ見る」

などよませ給へる、むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき。承曆二年四月廿八日殿上の歌合せさせ給ふ。判者は六條右のおとゞ、皇后宮大夫と申しゝ時せさせ給ひき。歌人ども時にあひ、よき歌も多く侍るなり。歌のよしあしはさることにて、事ざまの儀式など、えもいはぬ事にて、天德歌合、承曆歌合をこそは、むねとある歌合には、世の末まで思ひて侍るなれ。又から國の歌をも、もてあそばせ給へり。朗詠集に入りたる詩の殘りの句を、四韻ながらたづね具せさせ給ふ事もおぼしめしよりて、匡房中納言なむ集められ侍りける。その中にさ月の蟬の聲は、なにの秋を送るとかやいふ詩の殘りの句をえたづね出ださゞりけるほどに、ある人これなむとてたてまつりたりければ、江帥見給ひて「これこそ此の殘りともおぼえ侍らね」と奏しける後に、仁和寺の宮なりける手本の中に、誠の詩、いできたりけるなどぞ聞こえ侍りし。又本朝秀句と申すなる文の後しつがせ給ふとては、法性寺の入道おとゞにえらばせたてまつり給ふとぞうけ給はりし。さて其のふみの名は、續本朝秀句と申して、みまきなさけ多く選ばせ給へるふみなり。五十の御賀こそめでたくは侍りけれ。康和四年三月十八日、堀川のみかど、鳥羽に行幸せさせ給ひて、父の法皇の五十の御よはひを、よろこび給ふな