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年四月東宮に立ちたまふ。御年十五。天長十年三月六日位に即き給ふ。御年二十四。世をしり給ふ事十七年。御ざえかしこく管絃の方もいみじくおはしましき。すべて御身の能いにしへの帝王にも勝れ給ひて、くすしの方などさへならび奉る人なかりしなり。今年慈覺大師如法經をかき給ひき。承和元年正月二日淳和院へ朝覲行幸侍りき。弘法大師の申し行ひ給ひしによりて今年より後七日の御修法はじまりしなり。三月廿一日に弘法大師定に入り給ひにき。生年六十二なり。同四年六月十七日慈覺大師もろこしへわたり給ひき。同五年十二月十九日に佛名ははじまりしなり。この月に小野篁を隱岐國へ流しつかはしき。その故は度々もろこしへ遣さむとせしめども、身に病侍るよしなど申してまからざりしにあはせて、もろこしへ遣しける文のことばのつゞきにひかされて世のためによからぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨の法皇御覽じて大きにいかり給ひて流しつかはさせ給ひしなり。同六年正月にぞ篁おきへまかりし。

  「わたのはらやそ島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり船」

とはこの時によみ侍りしなり。同七年四月八日始めて灌佛は行はれしなり。六月に小野篁召し還されて未だ位もなかりしかば黃なるうへのきぬを着てぞ京へは入れりし。同九年七月十五日に嵯峨法皇うせさせ給ひにき。當代の御父に坐します。十七日平城天皇の御子に阿保親王と申しゝ人嵯峨のおほ后の御許へ御消そくを奉りて申し給ふやう「東宮の帶刀こはみねと申すものまできて太上法皇既にうせさせ給ひぬ。世の中の亂出で來侍りなむず。東宮を