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東國へわたし奉らむ」と申すよしを吿げ申し給ひしかば、忠仁公の中納言と申しておはせしを后呼び申させ給ひて、阿保親王の文を御門に奉り給ひき。この事こはみねと但馬權守橘逸勢とはかれりける事にて、東宮は知り給はざりけり。廿四日に事あらはれて廿五日に但馬權守を伊豆國へつかはし、こはみねをおきへつかはす。又中納言よしの宰相あきつなど流されにき。この但馬權守と申すは世の人きせいとぞ申す神になりておはすめり。東宮おそりおぢ給ひて太子を遁れむと申し給しひかば、御門「この事はこはみねひとりが思ひたちつる事なり。東宮の御あやまりにあらず。とかくおぼす事なかれ」とてたゞもとのやうにておはしまさせき。東宮と申すは淳和天皇の御子なり。御門には御いとこにておはしましゝなり。今年十六にぞなり給ひし。八月三日御門冷泉院に行幸ありてすゞませ給ひしに、東宮もやがて參らせ給ひたりしに、いづ方よりともなくて文をなげいれたりき。こはみねが東宮を敎へ奉りたる事どもありしかば俄に東宮の宮づかさ帶刀おもと人など百餘人とらへられて、東宮をば淳和院へかへし奉りて、四日當代の第一の親王を東宮に立て申し給ひき。文德天皇これにおはします。嘉祥元年三月二十六日に慈覺大師もろこしよりかへりたまふ。もろこしにおはせし間惡王にあひたてまつりてかなしきめどもを見給へりしなり。佛經をやきうしなひ尼法師を還俗せさせしめ給ひしをりにあひて、この大師も男になりて頭をつゝみておはせしなり。同三年三月に御門御病重くならせ給ひて、御ぐしおろして中一日ありてうせおはしましきとぞ。さてこの申す事は、見聞きし事ばかりなれば、大切なる事もおほくおち侍りぬら